劉邦は無能ではなかった|実績ゼロの男を大将軍にした話
早田経営支援オフィス 早田直弘|杉並区・中野区の中小企業診断士×社会保険労務士

項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)で知られる楚漢戦争(そかんせんそう)から、経営のヒントを読み解いていきます。
前回の「項羽はなぜ負けたのか」では、項羽の敗因を取り上げました。今回はその項羽に勝った側です。
劉邦には、人望だけで担がれた無能な親分、という像がついて回ります。自分では何もできないが、人を使うのがうまかった。そういう話として語られることが多い。
記録を追うと、だいぶ違います。楚漢戦争の流れそのものは「楚漢戦争のあらすじ」にまとめてあります。
自分でも、よく戦っている
旗揚げからしばらくの劉邦は、自分で軍を率いて秦(しん)の地方軍と戦い、勝っています。碭(とう)という城を三日で攻め落として五、六千の兵を吸収し、続いて下邑(かゆう)も攻略しました。
関中(かんちゅう)へ向かう道でも同じです。武関(ぶかん)では守将を欺いて破り、藍田(らんでん)では旗を増やして兵が多いように見せかけ、秦軍を退けています。そして項羽より先に咸陽(かんよう)へ入りました。
皇帝になってからはもっとはっきりします。燕王(えんおう)の反乱も、韓王信(かんおうしん)の反乱も、自ら軍を率いて鎮めに出ています。晩年に英布(えいふ)が反乱したときも、病を押して自分で出陣しました。
項羽に敗れる姿だけで、劉邦の軍事能力を測ることはできません。相手は、中華の歴史でも最強と言われる男です。項羽に勝てないことと、戦ができないことは違います。
実績ゼロの男を、全軍の総司令官にした
その劉邦がやったことのなかで、群を抜いて異様なのが韓信(かんしん)の抜擢です。
韓信は、項羽のもとで用いられず、劉邦のところへ移ってきた男でした。移ってからも冷遇され、兵糧の管理をする役どまりで、見切りをつけて逃げ出しています。
連れ戻したのは蕭何(しょうか)でした。なぜ韓信一人を追ったのかと問われ、蕭何は劉邦に答えます。
「将軍なら、ほかにも得られます。しかし韓信は、国士無双(こくしむそう)、他に並ぶ者のいない人材です。漢中(かんちゅう)の王で終わるおつもりなら、韓信は必要ありません。しかし、天下を争うおつもりなら、ともに大事を計れるのは韓信をおいてほかにいません。どちらをお選びになるかです」
劉邦は、東へ出たい、いつまでもここに留まるつもりはないと答えます。蕭何は続けました。
「それなら韓信を用いてください。用いるなら留まります。用いないなら、結局は去ります」
劉邦は、蕭何のために韓信を将軍にしようと言いました。しかし、蕭何は譲りません。
「将軍にしたとしても、韓信は留まらないでしょう」
そこで劉邦は、大将、全軍の総司令官にすると決めます。
ところが、その場で韓信を呼んで任命しようとすると、蕭何はそれも止めました。
「大王は普段から礼を軽んじておられます。今、大将を任命するのに、子供を呼びつけるような扱いをなさる。それこそ、韓信が去った理由です。本当に大将にするおつもりなら、よい日を選び、身を清め、壇を設け、礼を尽くしてください」
劉邦は、その進言を受け入れました。
将軍たちは、誰もが自分こそ大将に選ばれると思っていました。ところが、任命されたのは韓信です。全軍が驚きました。
肩書を渡すだけではなく、その人物を重く用いることを、皆の前で示したのです。
戦功はゼロです。古参でもない。劉邦自身が韓信の働きを見たこともない。会社でいえば、中途で入って半年も経たない、まだ何の数字も出していない人間を、いきなり役員待遇の営業本部長にするようなものです。
しかも渡したのは肩書だけではありません。軍そのものを渡しています。
権限、報酬、承認
劉邦の任せ方は、三つが揃っています。
ひとつは、権限を責任ごと渡したこと。韓信には軍を率いる役割を、蕭何には本拠地の関中を支える役割を任せました。仕事を命じるだけでなく、それを動かす権限も渡したのです。
ふたつめは、報酬を出したこと。韓信は後に斉王(せいおう)、楚王(そおう)になります。天下を取ったあとの論功行賞では、戦場に一度も立たなかった蕭何を第一位に置きました。武将たちが不服を唱えると、獲物を追うのは犬だが、犬を放つ場所を決めるのは人間だ、と説明しています。
みっつめが、認めたことです。策をめぐらせて勝利を導くことでは張良(ちょうりょう)に、国を治めて兵糧を絶やさないことでは蕭何に、大軍を率いて勝つことでは韓信に及ばない。その三人を使えたから天下を取れた、と公の場で言っています。
天下を取った皇帝が、部下のどの能力に自分が及ばないのかを、皆の前で語ったのです。
項羽との違いは、与えた地位だけでなく、その後の人の扱いにも表れています。
項羽は、功績を上げた者に地位を与える段になると、印を握りしめて角がすり減るまで渡せなかった。陳平(ちんぺい)は計略で敵を降伏させた功で都尉(とい)になりましたが、後にその土地が劉邦に奪われると、その責任を項羽に問われて殺されかけ、逃げ出しています。項羽は英布を王にしましたが、英布が動かなくなると使者を送って責め続けました。
功績に報いるべきときに出し惜しみし、失敗すれば追い詰める。
劉邦の人の使い方は、今の企業でいう登用、配置、評価、報酬を一通り押さえています。実績のない韓信を大将に登用し、韓信には軍を、蕭何には関中を任せました。三人のどの力に自分が及ばないかを見極め、韓信を王に封じ、蕭何を論功行賞の第一位に置いて報いました。「人を使うのがうまかった」という一言の中には、これだけの仕事があるのです。
任せられるのは、能力があるからだ
劉邦がやったことを分解すると、任せるという行為の前に三つあります。
ひとつは、蕭何を見抜いていたこと。韓信を見抜いたのは蕭何ですが、その蕭何を信用に足ると判断していたのは劉邦です。誰の言葉なら軍を預ける判断の根拠にできるか、そこを間違えていません。
ふたつめは、自分より優れた人の力を理解できたことです。劉邦自身も軍を率いて戦える人でしたが、大軍を率いることでは韓信に及ばないと、本人が認めています。自分を上回る人材を使うには、その人と同じことができなくても、話の筋を理解し、任せる価値を判断できればよいのです。
そしてみっつめが、胆力です。
見抜いて、話も分かった。それでも実際に渡せるかどうかは別です。外れれば全軍を失います。蕭何が推すとはいえ、戦功のない男に、それを賭けられるか。
古参の将たちが納得していたとは思えません。長く従ってきた自分たちを飛び越えて、昨日入ってきたような男が総司令官になるのですから。その不満を引き受けたうえで、劉邦は渡しました。
見抜く力、自分を上回る能力の価値を理解する力、そして渡す胆力。この三つが揃って、はじめて任せるという判断が成立します。
形だけ真似しても、丸投げになる
だから、任せるという形だけを真似しても、同じにはなりません。
見抜けないまま渡せば、渡す相手を間違えます。話を聞いても筋が分からなければ、渡したあとに何が起きているか分かりません。胆力がなければ、そもそも渡せないし、渡せたとしても心配で口を出し続けます。
劉邦は人望だけで担がれた無能な親分だ、という見方がありますが、この抜擢ひとつ見ても、そうではないと思います。人を見抜く力があり、自分を上回る能力の価値を理解できて、そのうえで任せる決断ができる。それ自体が高い能力です。
ただし、劉邦でも無傷では済んでいません。天下を取るために頼った功臣たちの力が、今度は自分の支配を脅かすものになりました。韓信や彭越(ほうえつ)は謀反を疑われて粛清され、英布は反乱を起こし、劉邦自ら討伐に出ています。蕭何が関中を預かっているあいだも、使者をやって様子を探らせています。
一代で帝国を作った人が、それだけ苦労しているということです。
それでも
破格の抜擢を真似できる人は、そういません。
ただ、権限を渡す、報いる、認める。このどれが欠けても人が離れていくことのほうは、規模に関係なく起きます。
項羽のもとから韓信も陳平も英布も去って、全員が劉邦の側で戦いました。
次回は、その劉邦のもとで最も地味な役回りを引き受けた蕭何を取り上げます。戦功は一つもありません。それでも論功行賞では第一位でした。

