楚漢戦争のあらすじ|双星を読むための資料

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このページは、双星(そうせい)の記事を読むときの下敷きとして用意した資料です。

双星の記事は一本ずつ独立していて、それぞれ場面を切り出して書いています。そのため「この話は全体のどのあたりなのか」が分かりにくいことがあります。そういうときに、ここへ戻ってきてください。

読み物としてではなく、地図として書いています。

秦(しん)の統一と、その崩壊

紀元前221年、秦の王だった政(せい)が、それまで並び立っていた国々を滅ぼし、中国を初めて統一しました。始皇帝(しこうてい)です。

この政は、漫画『キングダム』に登場する政と同じ人物です。信(しん)や政たちが活躍し、中華統一を目指した時代。その統一が実現したあとの話が、ここから始まります。

文字も、通貨も、車輪の幅も、ものさしも統一し、強力な中央集権の仕組みを作りました。

その始皇帝が、紀元前210年、地方への巡幸の途中で急死します。

このとき同行していたのは、丞相の李斯(りし)、側近の趙高(ちょうこう)、そして末子の胡亥(こがい)でした。三人は遺言を書き換え、北の辺境にいた長子の扶蘇(ふそ)に自害を命じ、胡亥を即位させます。実権を握ったのは趙高でした。

厳しい法と重い労役に耐えかねて、各地で反乱が起きます。最初に火をつけたのは陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)という二人の人夫でした。この反乱は短期間で潰れますが、各地の蜂起は止まらず、統一からわずか十五年で秦は滅びます。

二人の登場

この混乱の中から、二人の人物が出てきます。

項羽(こうう)は、楚(そ)の名将だった項燕(こうえん)の孫です。叔父の項梁(こうりょう)とともに江東(こうとう)で挙兵しました。名門の出で、兵も人脈も最初から持っています。

劉邦(りゅうほう)は、沛(はい)という土地の下級役人でした。人夫を送り届ける任務の途中で逃亡者を出し、戻れば処罰されるため、そのまま山にこもって集団の頭になった男です。財も家柄も軍事の経験もありません。

このとき劉邦に従ったのは、同じ村の顔見知りばかりでした。後に漢(かん)の中枢になる面々も、この時点では犬の肉を売る男や、葬式で笛を吹く男です。

当初、劉邦は項梁の傘下に入る一勢力にすぎませんでした。

秦の打倒と、咸陽(かんよう)一番乗り

紀元前208年、項梁が戦死します。その後、秦と戦う楚の軍を率いたのは宋義(そうぎ)で、項羽は副将でした。しかし、進軍しようとしない宋義を項羽が殺し、軍の指揮権を握ります。

紀元前207年、項羽は鉅鹿(きょろく)という土地で秦の主力軍を打ち破ります。渡った川の船を沈め、釜を壊して退路を断ったという逸話が残る戦いです。この勝利で項羽は諸侯の盟主になりました。

一方の劉邦は、楚の懐王(かいおう)の命令で、別のルートから関中(かんちゅう)を目指していました。懐王は、先に関中を平定した者を、その地の王にすると約束していました。秦の都である咸陽に先に入ったのは、劉邦でした。

咸陽に入った劉邦は、秦の厳しい法をすべて廃し、殺人と傷害と盗みの三つだけを罰すると宣言しました。法三章です。宮殿の財宝にも手をつけませんでした。このとき蕭何(しょうか)だけは、財宝ではなく秦の法令や地図や戸籍を押さえています。

鴻門(こうもん)の会と、分封

項羽は関中へ向かう途中、新安(しんあん)で秦の降伏兵二十万余りを生き埋めにしました。

ところが、関中に入ろうとした項羽を、劉邦の兵が関所で阻みます。劉邦が先に秦を降伏させ、関中を自分のものにしようとしていると知った項羽は、激怒しました。

鴻門という場所で開かれた会見の席で、劉邦は殺されかけます。項羽の参謀である范増(はんぞう)が合図を送り、剣舞にかこつけて劉邦を討とうとした場面です。項羽の叔父である項伯(こうはく)が身を挺してかばい、劉邦は辛うじて逃れました。

力関係は明らかでした。項羽は咸陽を焼き、自ら西楚(せいそ)の覇王を名乗って、諸侯に土地を分け与えます。

劉邦に与えられたのは、巴(は)と蜀(しょく)。今の四川(しせん)で、当時は辺境です。事実上の左遷でした。張良(ちょうりょう)が項伯に贈り物をして働きかけ、そこへ漢中(かんちゅう)が加えられます。これで劉邦は漢王となり、漢中の南鄭(なんてい)を都としました。

関中へ

ところが劉邦は、漢王となった紀元前206年のうちに、関中へ攻め戻ります。関中は項羽が三人の王に分けて守らせていましたが、劉邦はこれを制圧しました。

ここから五年に及ぶ争いが始まります。

大敗と、持ちこたえた五年

紀元前205年、劉邦は項羽の本拠地を突きます。しかし戻ってきた項羽に彭城(ほうじょう)で叩き潰されました。史記(しき)によれば、劉邦側の兵は五十六万、対する項羽は三万です。数の上では圧倒していて、それでも壊滅しました。

以後、劉邦は滎陽(けいよう)・成皋(せいこう)という土地で項羽と向き合い、負けては逃げ、逃げては立て直すことを繰り返します。正面から勝てないのです。

その間に、四つのことが進みました。

ひとつは、韓信(かんしん)が北の方面を次々に平定していったことです。魏(ぎ)、代(だい)、趙(ちょう)、燕(えん)、そして斉(せい)。項羽が劉邦にかかりきりになっている間に、戦線の外側が塗り替えられていきました。趙を攻めたときの背水の陣は、この過程の話です。

ふたつめは、彭越(ほうえつ)が項羽の後方を荒らし、補給線を断ち続けたことです。項羽は前線に張りつけず、何度も引き返さざるを得なくなります。

みっつめは、項羽の配下だった英布(えいふ)が、説得を受けて劉邦側に寝返ったことです。

よっつめは、蕭何が関中から兵と食糧を送り続けたことです。何度負けても、軍が再建されました。

垓下(がいか)と、四面楚歌

紀元前203年、両者は天下を二分する和議を結びます。ところが劉邦は、退却を始めた項羽をその直後に追撃しました。張良と陳平(ちんぺい)の進言によるものです。

翌年、垓下で項羽は包囲されます。

夜、周囲を囲む漢の軍から、楚の歌が聞こえてきました。これほど多くの楚の人間が敵陣にいる。故郷の楚まで、すでに漢の手に落ちたのかと、項羽は驚きます。四面楚歌という言葉はここから来ています。

項羽は包囲を破って逃げ、烏江(うこう)という渡し場にたどり着きました。渡し守は、故郷へ戻って再起するよう勧めます。しかし項羽は、故郷の人々に合わせる顔がないと言って断り、その場で自ら命を絶ちました。三十一歳です。

勝ったあとの七年

劉邦は皇帝になり、漢を建てました。

物語はここで終わりません。むしろここからが厄介です。

まず、論功行賞がありました。武将たちは自分の戦功を主張しましたが、劉邦は一度も戦場に立たなかった蕭何を第一位に置きます。武将たちが不服を唱えると、劉邦は猟犬と猟師のたとえで説明しました。獲物を追うのは犬だが、犬を放つ場所を決めるのは人間だ、と。

次に、功臣の処遇がありました。劉邦は功臣たちに土地と兵を与えて王に封じましたが、その力が大きくなりすぎます。晩年の劉邦は、彼らを次々に排除していきました。韓信も、彭越も、英布も、この過程で失われます。

そして、後継ぎの問題がありました。劉邦は太子を替えようとして群臣に反対され、断念します。妻である呂后(りょこう)の一族が力を持ち始めたのも、この時期です。

紀元前195年、劉邦は死にました。挙兵から約十四年、皇帝になってから七年です。

主な登場人物

劉邦
漢の初代皇帝。下級役人から身を起こす。酒と女が好きで、口も態度も悪い。粗野で下品なおじさんという顔を持つ。その一方で、人の才を認め、仕事を任せる器があった。策を立てる張良、後方を支える蕭何、軍を率いる韓信。それぞれの得意分野では自分は及ばないと認め、その三人を使った。

項羽
楚の名門の出で、先代の基盤を引き継いだ。個人の武勇は、後世の李晩芳(りばんほう)が『読史管見』(どくしかんけん)で「羽之神勇,千古無二」(項羽の神がかった勇猛さは、歴史を通じて並ぶ者がいない)と評したほど。その一方で、韓信からは「匹夫の勇」「婦人の仁」と評された。自分は強くても優れた将軍に任せられず、病人には涙を流して食事を分けても、功績に報いる爵位は惜しんで渡せない。人への情と、人を活かす力がかみ合わなかった。

張良
劉邦の参謀。全体を読んで策を立て、進む方向を示した。劉邦は「夫運籌策帷帳之中,決勝於千里之外,吾不如子房」(陣営の中で策をめぐらし、千里の外で勝利を決める。その点では、私は張良に及ばない)と評している。『史記』高祖本紀にある言葉で、子房(しぼう)は張良の字。天下を取ったあとは、大きな領地を辞退し、劉邦と出会った留(りゅう)の地に封じられることを望んだ。その後は政治の表舞台から距離を置いた。

蕭何
劉邦と同郷で、挙兵前からの仲間。もとは地元の役人で、劉邦が無名だったころから何かと助けていた。戦争では後方を支え、兵と食糧を送り続け、法と記録を整えた。韓信を見抜いて引き上げたのもこの人。劉邦は天下を取ったあとの論功行賞で、蕭何を第一位に置いた。

韓信
劉邦軍の最大の戦力。もとは項羽の陣営にいたが認められず、劉邦のもとへ移った。蕭何に「国士無双」、他に並ぶ者のいない人材と評された。軍を率いて北方の国々を次々に平定し、劉邦の勝利を決定づけた。統一後は力を削がれ、最後は処刑される。

陳平
劉邦の謀臣。謀略に長けた知恵者で、項羽と范増の仲を裂く離間策などで劉邦を支えた。こちらも項羽の陣営から移ってきた人物。悪評を聞いた劉邦も一度は疑ったが、推薦者と本人の説明を聞き、その才を認めて重用した。劉邦の死後、漢を守る側に回る。

范増
項羽の参謀。「亜父(あほ)」、父に次ぐ存在として敬われた老臣。劉邦が将来の脅威になると見抜き、鴻門の会で討つよう促したが、項羽は決断しなかった。最後は陳平の離間策で項羽に疑われ、陣営を去る。帰郷の途中で病死した。

彭越
もとは沼沢地で漁をし、盗賊の集団を率いていた年配の親分。神出鬼没のゲリラ戦を得意とし、独自の軍勢で項羽の後方を繰り返し荒らして、兵糧の輸送を断った。項羽が劉邦との戦いに集中できない状況を作り、勝利を支えた。戦後は王となるが、最後は処刑される。

英布
もとは項羽の配下で、先鋒を務めた豪傑。若いころに顔へ入れ墨を施す刑罰を受け、黥布(げいふ)とも呼ばれる。少数の兵で大軍を破る戦いを重ね、項羽の快進撃を支えた。その後、劉邦側に寝返る。戦後も王として勢力を持ったが、功臣の粛清が続くなかで反乱を起こし、敗れて命を落とした。

なお、この時代の記録は司馬遷(しばせん)の『史記』にほぼ拠っています。逸話には諸説あるものや後世の脚色が混ざっているので、細かい史実の確定にはここでは立ち入りません。

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この記事を書いた人

早田直弘

早田直弘(そうだ なおひろ)

中小企業診断士・社会保険労務士

早田経営支援オフィス代表。

人の問題を経営改善の視点から、経営の問題を人の切り口から、複合的に根本から解決していく、中小企業診断士×社会保険労務士

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