なぜ楚漢戦争なのか|三国志ではなく、この戦争から経営を読む理由
早田経営支援オフィス 早田直弘|中小企業診断士×社会保険労務士

前回、このブログに「双星」というジャンルを作ったこと、そしてなぜ士業のブログで歴史の話をするのかを書きました。
今回は、数ある題材の中でなぜ楚漢戦争(そかんせんそう)を軸に選んだのかを書きます。ここを先に言っておかないと、次回以降の話が「私の趣味」にしか見えないからです。
まず、どんな戦争だったのか
ご存じない方のために、先に流れだけ書いておきます。
紀元前三世紀の終わり、中国を初めて統一した秦(しん)は、始皇帝(しこうてい)が死ぬと数年で崩れました。各地で反乱が起き、その中から二人が残ります。楚(そ)の名門の将軍家に生まれた項羽(こうう)と、地方の下級役人だった劉邦(りゅうほう)です。二人はいったん協力して秦を倒しますが、その後の分け前をめぐって対立し、五年にわたって争いました。序盤から中盤にかけて、劉邦はほとんど負け続けます。それでも最後に項羽を追い詰め、垓下(がいか)で決着がつきました。勝った劉邦が漢(かん)を建て、そのあと功臣の処遇と後継ぎの問題に手を焼きながら死んでいきます。
物語としては、ここまでで一続きです。
人物や地名まで含めた詳しい流れは、別に資料としてまとめました。読みながら分からなくなったら「楚漢戦争のあらすじ」に戻ってください。以降の双星の記事も、すべてここを下敷きにしています。
基盤を持つ二代目と、何も持たない男
この戦争の骨格は、最初から最後まで二人の対比です。
項羽は、楚の名将だった項燕(こうえん)の孫です。叔父の項梁(こうりょう)とともに挙兵し、項氏の名望と、叔父が築いた軍や人脈を足場にしました。項梁の戦死後、軍の指揮権を握るまでには争いもありましたが、やがて秦の主力を打ち破り、一気に諸侯の盟主になっています。先代が築いた基盤の上に、本人の能力も突出している。会社で言えば、最も手強い型の二代目です。
劉邦のほうは、村の下級役人でした。財も、家柄も、軍事の経験もない。集めたのは同じ村の顔見知りばかりで、後に漢の中枢になる面々も、この時点では犬の肉を売る男や、葬式で笛を吹く男です。
この二人が同じ舞台で正面からぶつかって、持たないほうが勝ちます。
初期の楚の陣営には、項羽を筆頭に、英布(えいふ)、鍾離眜(しょうりばつ)、龍且(りゅうそ)、季布(きふ)と、猛将が揃っていました。戦場での将の層の厚さには、圧倒的な差がありました。戦えば負ける。実際、項羽と正面から戦って勝った記録がほとんどありません。
それでも最後に勝った。理由は、人の使い方しかありません。
勝った理由が、人の使い方しかない
劉邦自身が、勝ったあとにこう言っています。
作戦を立てて千里の外の勝敗を決めることでは張良(ちょうりょう)に及ばない。国を治め、兵と食糧を絶やさず送ることでは蕭何(しょうか)に及ばない。百万の軍を率いて必ず勝つことでは韓信(かんしん)に及ばない。
そして、こう続けます。
「此三者,皆人傑也,吾能用之,此吾所以取天下也。」(この三人はいずれも傑物である。私は彼らを使うことができた。これが、私が天下を取った理由だ。)
『史記』(しき)高祖本紀(こうそほんぎ)にある言葉です。項羽には范増(はんぞう)がいたが、その一人すら使いこなせなかった、とも述べています。
自分の能力の限界を、勝った直後に、公の場で口にしています。
社長の口からこの言葉が出る会社は、そう多くありません。むしろ逆で、業績が良いときほど「自分がやってきた」という話になります。その自負はあっていい。ただ、周囲の働きまで自分の手柄にしてしまうと、自分にない能力を持つ人の言葉も聞けなくなる。そうなれば、周りも意見を言わなくなります。
項羽のほうは、最後まで自分の強さで勝とうとしました。そして最期が迫ったとき、こう言っています。
「此天之亡我,非戰之罪也。」(これは天が私を滅ぼすのであって、戦い方を誤ったせいではない。)
『史記』項羽本紀(こううほんぎ)にある言葉です。
中華の歴史でも最強と言われる武将が、最後まで負けた理由を自分の外に置いたまま死にました。
経営の全工程が、一続きで描かれている
私がこの戦争を軸にする一番の理由は、経営で問題になることが、ひとつの物語の中に順番どおり出てくることです。
人材の流出と獲得があります。劉邦の最大の戦力になった韓信も、最も知恵の回った陳平(ちんぺい)も、もとは項羽の陣営にいた人間です。項羽が使えなかった人材が、そっくり相手の主力になりました。
兵站があります。前線が派手に戦っている間、蕭何はひたすら後方で兵と食糧を送り続け、法と記録を整えていました。戦功はありません。それでも劉邦は、天下を取ったあとの論功行賞で蕭何を第一位に置いています。
外部との提携があります。劉邦は自前の兵力で足りない分を、他勢力との協力で埋めました。ただし相手は家臣ではないので、動かすには利益を示す必要がある。最後の決戦の直前、約束した兵が動かずに苦しんだ場面もあります。
評価と処遇の失敗があります。項羽は人には情け深く、部下が病めば涙を流すほどだったと伝えられています。ところが功績を上げた者に地位を与える段になると、渡すべき印を手の中で握りしめ、角がすり減るまで渡せなかった。優しさは伝わっても、報いがなければ人は離れます。
そして、勝ったあとの話があります。功臣にどこまで力を持たせるか。持たせすぎた力をどう戻すか。誰を後継ぎにするか。劉邦は晩年、この三つで苦しみ抜きました。
天下を取ったところでも、劉邦が死んだところでも、話は終わりません。自分が登用した人材が、自分の死後にどう国を支えたかまで追えます。社長が引退したあとも、選んだ人材が次の社長を支える。人を見る目が、その先まで効いてくるところも読めるのです。
創業、拡大、統一、そして承継。会社が通る段階が、そのまま順番に並んでいます。
なぜ三国志(さんごくし)ではないのか
歴史から経営を語るなら三国志のほうが知られていますし、題材も豊富です。実際、三国志にも経営の教材になる話はいくらでもあります。
曹操(そうそう)は、人格に難があっても才があれば採ると宣言しました。採用方針の公式声明です。魏(ぎ)では人物を九等級で評価して登用する制度が作られ、それが後に家柄で等級が決まるよう形骸化していきます。評価制度が制度疲労を起こす過程が、そのまま残っている。屯田制は兵站を仕組みで自給する話ですし、孫権(そんけん)の後継者争いである二宮の変(にきゅうのへん)は、事業承継の失敗が組織を揺るがす話です。
それでも私が楚漢戦争を軸にするのは、次の三つの理由です。
ひとつは、判断と結果を一続きで追えることです。劉邦の挙兵から統一、そのあとの処遇と承継、さらに没後まで。劉邦を軸に読むことで、誰を選び、何を任せたかが、後にどう効いたのかを線でたどれます。三国志は百年近くあり、主役が世代を交代しながら三つに分かれていくので、判断と結果を結びつけにくい。
ふたつめは、成功したあとの話が丸ごと残っていることです。劉邦の論功行賞は、誰を第一位にしたか、その根拠をどう説明したか、最も嫌っていた相手をなぜあえて先に取り立てたか、序列と報酬をどう分けたかまで細かく記録されています。曹操も劉備(りゅうび)も、天下統一には届きませんでした。劉邦の場合は、天下を取るために力を借りた仲間を、取ったあとにどう評価し、どう報い、どこまで力を持たせるかという問題まで続きます。事業を成功させるまでと、成功させたあとの人の扱いを、一続きで読めるのです。
みっつめは、ゼロから始めて完走した例があることです。三国志で本当に何も持たずに始めたのは劉備ですが、その劉備は天下を取れずに終わります。曹操は父の財力と一族という基盤の上から始め、孫権は兄が作った組織を引き継いだ。何も持たない人間が、天下を取り、取ったあとの問題まで抱えるところまで行った例は、三国志にはありません。
三国志が劣るという話ではありません。組織ができたあとの運営、制度、承継という点では、むしろ三国志のほうが材料が豊富です。このジャンルでも、蜀(しょく)の話は繰り返し扱うつもりです。ただ、会社が大きくなっていく過程を一本の線で追うなら、楚漢戦争のほうが向いている。それだけのことです。
これから書くこと
次回から、この戦争の場面をひとつずつ取り上げていきます。
項羽はなぜ負けたのか。劉邦は本当に無能だったのか。評判の悪い人材をどう見るか。エースに全権を渡したあと、その人をどう処遇するか。功臣の力をどう戻すか。
二千年前の人たちが間違えたことを、今の会社もほぼそのまま間違えています。逆に言えば、二千年前に分かっていたことは、今でも使えるということです。
隔週の日曜に、一本ずつ書いていきます。
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