項羽はなぜ負けたのか|楚漢戦争に学ぶ経営の落とし穴

早田経営支援オフィス 早田直弘|杉並区・中野区の中小企業診断士×社会保険労務士

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項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)で知られる楚漢戦争(そかんせんそう)から、経営のヒントを読み解いていきます。

項羽は、中華の歴史でも最強と言われる武将です。それほど強い項羽は、なぜ劉邦に負けたのでしょうか。

戦場での強さは飛び抜けていました。それでも、人が離れ、国を支える基盤を失い、最後には滅びます。営業や現場では強いのに、経営がうまくいかない。そんな会社の問題にもつながる四つの敗因を見ていきます。

楚漢戦争の流れそのものは「楚漢戦争のあらすじ」にまとめてあります。

どれくらい強かったのか

挙兵したその場で、項羽は一人で百人近くを斬ったとされます。

本拠地を突かれて引き返したときは、三万の手勢で五十六万の劉邦軍を打ち破りました。川へ追い落とされた漢(かん)の兵が積み重なり、流れが止まったと書かれています。

垓下(がいか)の戦いで敗れた項羽は、漢の軍に幾重にも包囲されます。夜になると、四方の敵陣から故郷の楚(そ)の歌が聞こえてきました。楚の地は、もう漢に奪われてしまったのか。項羽は驚きます。これが、周囲に味方がいない状況を表す「四面楚歌」の由来です。

しかし、包囲を脱したあとも、項羽の強さは変わりませんでした。東城(とうじょう)では、わずか二十八騎で漢の数千騎に囲まれます。それでも敵陣に突入して漢の将を斬り、再び集まったとき、失った味方は二騎だけ。烏江(うこう)では自ら数百人を斬り、十数か所の傷を負った末に、自ら命を絶ちました。

本人は死ぬ前にこう言っています。挙兵から八年、七十余度戦って、向かってきた者は破り、討った者は従えた。いまだ一度も負けたことがない、と。

誇張はあるでしょう。それでも、後世の李晩芳(りばんほう)は『読史管見』(どくしかんけん)で「羽の神勇、千古に二つ無し」と評しました。項羽の神がかった勇猛さには、長い歴史を通じても並ぶ者がいない、という意味です。

そして、強かったのは項羽だけではありません。龍且(りゅうしょ)、鍾離眜(しょうりばつ)、季布(きふ)。ついていける猛者が揃っていました。

外から見れば、これ以上ない軍団です。

その項羽が、負けました。

負けた理由は、戦場の外にあった

項羽の敗因は、最後の戦いだけを見ても分かりません。戦場で強さを見せながら、その強さを支える人と基盤を失っていった。その過程を見る必要があります。

彭城(ほうじょう)で五十六万を蹴散らしたあとも、正面からの戦いではほとんど負けていません。その間に、兵糧が尽き、配下が離れ、戦線は外側から塗り替えられていきました。垓下で包囲されたときには、もう武勇で覆せる盤面ではなくなっていた。

では何が足りなかったのか。数え上げるときりがないのですが、大きく四つに束ねられると思います。

一、人を活かせず、人材流出を招いた

功績を上げた者に地位を与える段になると、渡すべき印を手の中で握りしめ、角がすり減るまで渡せなかったと、韓信(かんしん)は評しています。部下が病めば涙を流すほど情の深い人でした。それでいて、報いる番になると出せない。

韓信が「婦人の仁(ふじんのじん)」と呼んだのは、このあり方です。目の前の相手には情をかけても、功績にふさわしい地位や報酬を与えられない。会社でも、社員に優しく接するだけでは足りません。仕事をきちんと評価し、その貢献に報いる。評価・報酬制度を整え、実際に報酬や処遇へ反映するところまで含めて、経営者としての優しさなのだと思います。それがあってこそ、社員の心をつかめるのではないでしょうか。

自分と違う型の有能さも、目に留まりませんでした。韓信は項羽のもとで側近として仕え、何度も策を進言しています。それでも用いられませんでした。韓信の強みは先頭に立って斬り合うことではなく、策と用兵です。項羽は、自分と同じ型の強さを評価基準にして、異なる才能を見落としていたのかもしれません。

人事評価には、自分と似た人を高く評価しやすい「類似性バイアス」があります。さらに、自分の得意分野ばかりを重く見て、自分にない能力の価値を低く見積もってしまうこともある。社長と同じことができる人だけが、会社に必要な人材ではありません。

猛将は揃っていました。会社にたとえれば、優秀な営業マンが揃っている組織です。しかし、それだけで会社が回るわけではありません。財務や労務などを担うバックオフィス、事業の方向を考える経営企画、営業の仕組みを作る営業企画。それぞれに違う能力が必要です。

項羽のもとにも、韓信や陳平(ちんぺい)、范増(はんぞう)という、武勇だけでは測れない人材がいました。ところが、その知恵や献策を十分に活かせなかった。

陳平は、後に劉邦の懐刀となる男です。資金と噂を使って敵の内側を崩すことにかけては、他に並ぶ者がいませんでした。その陳平も、はじめは項羽のもとにいます。

兵を率いて敵を降伏させ、帰還した陳平は、その功で都尉という軍の役職に就きました。ところが、その後に劉邦がその土地を攻め取ると、項羽は怒り、先の平定に関わった将吏を処刑しようとします。陳平は身の危険を感じ、逃げ出しました。

仮に責任を問うべき点があったとしても、それまでの功績を顧みず、命まで奪おうとする。会社に置き換えれば、成果や貢献よりも失敗を重く見る、減点主義の人事評価です。しかも、その責任の取らせ方が、人を追い詰めるほど重い。失敗の責任を問うことと、働き続けられないところまで追い込むことは別です。評価と処遇のバランスを欠けば、せっかく力を発揮していた人まで失うことになります。

王に封じた配下も、繋ぎ止められませんでした。

九江王に封じた英布(えいふ)は、項羽軍の先陣を務め、勝利に貢献してきた男です。その功で王になりましたが、ほどなく、項羽たちが主君として仰いでいた義帝(ぎてい)を密かに殺す役を命じられます。

自分たちが主君として立てた相手を、自分たちの都合で殺す。功績に報いて王にした相手に、今度は主君殺しの汚れ役を背負わせたのです。

やがて項羽が兵を求めても、病と称して自分では動かず、部下に数千人を預けて送るだけになりました。項羽は恨んで使者を送り、繰り返し責めます。英布はますます項羽の前に出られなくなり、劉邦の使者に説かれて寝返りました。

人の心を掴めないという項羽の欠点が、ここでも出たのかもしれません。

韓信も、陳平も、英布も、最後は劉邦の側にいました。

優秀な社員が辞める。それだけでも痛手ですが、その人が競合他社で力を発揮すれば、自社が失った力は相手の強みになります。項羽の陣営で起きたことは、会社でも起こり得ます。

二、人心を失い、経営資源を無駄にした

秦(しん)を倒したとき、項羽の手には関中(かんちゅう)がありました。四方を山と川に囲まれ、守りやすく豊かな土地です。ここを本拠にすれば天下が取れる、と勧めた者がいました。

項羽は断り、故郷へ帰ります。富貴になって故郷に帰らないのは、錦の着物を着て夜道を歩くようなものだ、と言ったとされます。せっかくの成功も、見せる相手がいなければ意味がない、ということです。

捨てられた関中は、のちに劉邦が押さえました。劉邦は何度負けても、そこから軍を立て直しています。

咸陽(かんよう)では、宮殿を焼きました。それより先に咸陽へ入った劉邦の側では、蕭何(しょうか)が、財宝には目もくれず、秦の法令と地図と戸籍を運び出しています。項羽が宮殿を焼く一方で、蕭何は国を治めるための記録を確保していた。その記録が、後に漢の統治を支える土台になりました。

降伏した秦の兵二十万余を、反乱を恐れて生き埋めにもしています。人の心を軽んじた結果、関中の人心は完全に離れました。

会社の経営資源も、設備や資金のように目に見えるものだけではありません。社員や取引先からの信頼、蓄積してきた情報やノウハウ、長年かけて育った企業文化も、事業を支えています。手に入れたものの価値を見極め、活かす。人心を失わず、受け継いだ財産を無駄にしない。それも、経営者の仕事です。

三、人の批判や諫言を受け入れなかった

関中を捨てて帰るという判断を聞いて、それは誤りだと評した者がいました。楚の人間は猿に冠をかぶせたようなものだ、見た目を整えても中身は変わらない、と。

項羽はその男を捕らえ、煮殺しています。

相手の言葉には、侮辱も含まれています。しかし、腹が立つ言い方だったことと、関中に留まるべきだという進言に聞く価値があったかどうかは、別の話です。

経営でも、耳の痛い意見を言う社員を遠ざければ、社長に都合のよい情報ばかりが集まるようになります。言い方への反感で、中身まで退けていないか。批判や異論を受け止めることは、自分の判断を誤らないためにも必要です。

頼みの参謀だった范増も、劉邦側の離間策で項羽に疑われ、進言を聞き入れられなくなった末に、自ら去っていきました。仕掛けたのは、かつて項羽のもとから逃げた陳平です。項羽は范増を亜父(あほ)、父に次ぐ存在として敬っていましたが、大事な場面ではその言葉を採っていません。鴻門(こうもん)の会で劉邦を討てと促されたときも、動きませんでした。

敬ってはいる。ただ、助言は容れない。そして批判した者は罰する。

四、戦術に頼り、戦略を欠いた

目の前の戦場でどう敵を破るか。それが戦術です。どこを押さえ、誰と組み、どう勢力を広げ、戦争全体に勝つか。それが戦略です。項羽には、前者の圧倒的な強さがありました。しかし、後者の視点が欠けていたのだと思います。

劉邦の陣営を見ると、その違いが分かります。

劉邦は正面で項羽と対峙します。負けても逃げ、軍を立て直して、また向き合う。その復活を支えたのが、関中から兵と食糧を送り続けた蕭何です。

その間に、彭越(ほうえつ)は項羽の後方を荒らし、兵糧の輸送を断ちます。項羽は劉邦との戦いに集中できず、何度も引き返さなければなりませんでした。

さらに韓信が、魏(ぎ)や趙(ちょう)、斉(せい)などの諸国を次々に平定していきます。英布のように、項羽側にいた人物を味方に引き入れる動きも進んでいました。

正面で持ちこたえる。その間に相手の補給を断ち、周囲の国を押さえ、味方を増やす。劉邦陣営は、複数の動きを組み合わせて、項羽を追い詰めていったのです。

項羽は、目の前の敵を破ることでは強かった。しかし、局地戦でどれだけ勝利を重ねても、戦略のまずさは覆せなかったのです。

会社でも同じです。目の前の売上を次々に作っていても、戦略がまずければ、それが会社の成長や発展につながるとは限りません。どの市場で、誰に、何を売り、どんな人材や資金、仕組みで事業を支えるのか。その全体を考える必要があります。

時には、どこで負けるかを考えることも必要です。採算の合わない受注を見送り、勝ち目の薄い市場から退き、限られた人材や資金を別のところへ振り向ける。目の前の売上やシェアを譲ってでも、会社全体の成長や存続につながる道を選ぶ。それも経営戦略です。

現場に強いだけでは、会社は守れない

項羽は最後まで強いままでした。わずかな手勢で数千騎に立ち向かい、烏江で数百人を斬って死んでいます。

それでも滅びました。

死ぬ間際、項羽はこう言ったと伝えられています。天が我を滅ぼすのであって、戦い方を誤ったのではない、と。

個々の戦場で勝つ力は、最後までありました。しかし、人を活かし、国を支える資源を守り、助言を受け入れ、全体を見て戦略を立てる。その不足は、戦場での強さだけでは埋められませんでした。

経営も同じなのではないでしょうか。「現場」だけが戦場ではないのです。

営業が飛び抜けて強い会社を見ると、ときどきこの話を思い出します。

四つの敗因は、それぞれ別の記事で書いていきます。次回は、その項羽に負け続けた劉邦のほうを取り上げます。人を使うのがうまかっただけの無能な男、という見方が長く通ってきましたが、記録を追うとかなり違う姿が出てきます。

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この記事を書いた人

早田直弘

早田直弘(そうだ なおひろ)

中小企業診断士・社会保険労務士

早田経営支援オフィス代表。

人の問題を経営改善の視点から、経営の問題を人の切り口から、複合的に根本から解決していく、杉並区・中野区の中小企業診断士×社会保険労務士。

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